日光

 

徳川幕府安泰の祈念と鎮守・日光の社寺

 日光は古くから関東地方の代表的な修験道の道場であった。8世紀奈良時代末に勝道上人(しょうどう)によって開山され、山岳信仰の聖地となり、神道、仏教が混交し、さらに17世紀江戸時代初期以降は、徳川家の墓所として、複合的な霊地を形成している。江戸時代にはこれらをあわせて一元的な管理がなされていたが、明治時代初期の神仏分離により二荒山(ふたらさん)神社、東照宮、輪王寺の二社一寺に分割され、今日に至っている。日光には日本宗教の特質である神仏混交の事例と、家康、家光の霊廟にみる壮麗な寺院建築を見ることができる。

鬼門を向く家光の輪王寺大猷院

 日光は古くから「ふたら」と呼ばれていた。男体山は二荒山(ふたらさん)とも呼ばれている。この語源にはいくつかの説がある。
 一説に、「ふたら」 はアイヌ語の「フトラ」(熊笹)から来た語であると言われている。男体山には笹が多い。「フトラ」が「フタラ」または「フタアラ」に変わり、これに「二荒」という漢字をあてた。他の説に、<ふたら>は、日光山を観音の補陀落(ふだらく)浄土とみなしていたという<ふだらく>→<ふたら>。また、男神・女神の二神が現れたことに由来するという説もある。 いずれも、その二荒を音読みしてニコウ、ニッコウ、日光となったとする解釈が一般的である。その背景には太陽崇拝、日輪崇拝があるとされる。 勝道上人は、仏教寺院として麓に四本竜寺(しほんりゅうじ)を建立し、さらに男体山頂に二荒山神社をまつった。ご祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、味スキ高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)、田心姫命(たごころひめのみこと)の三神である。勝道上人の一団が男体山に祀るにあたって麓から16年もの長い時間を要していることから、先住民の抵抗があったのではないかと示唆する文献もある。
 現在でも、二荒山神社は、男体山頂から中禅寺湖畔を含む広大な地領を持ち、伊勢神宮に次ぐ大きな神社である。
 四本竜寺はその後、満願寺、光明院と名前を変え輪王寺となる。 輪王寺は天台宗の東の総本山となり、大猷院本堂には、三代将軍家光がまつられている。地形図を見ると大猷院本堂は大きく山の北東斜面を削る大工事を行い、北東(鬼門)に向かってすっぽりと山懐に埋め込まれるように建てられている。この大猷院の軸線が鬼門を向かっていることは、祖父家康が眠る東照宮を守ることを意図しているとされる。

「天帝」の思想

 徳川家康は死の直前に遺言を残している。 「遺体は駿河国の久能山に葬り、一周忌が過ぎてから、日光に小堂を建てて勧請せよ。(そうすれば神となって)八州の鎮守となろう」
 この遺言にそって家康の死(1616年)の一年後に日光大権現東照社が、二代将軍秀忠によって質素な霊廟として作られた。現在の豪華な東照宮は、家光による「寛永の大造替」で建てられたものである。
 ところでなぜに、家康は我が身を日光の地に祀れと言ったのだろうか。主だった議論を以下に取り上げてみる。
1)日光は江戸のほぼ真北に位置すること。 実際、江戸が東経139度45分、日光は139度39分である。北を象徴するのは北極星であり、古代中国では北極星は宇宙を主宰する「天帝」の位置にあった。つまり、家康を江戸の北に祀ることで徳川政権の守り神とする意図があったとされる。
 また、東照宮の配置が、陽明門、唐門、拝殿、本殿、奥社と北に向かって一直線となり、参拝者は北極星を拝むことになる。
2)日光は頼朝も信仰した関東の霊山であったこと。 源氏の統領・源頼朝を崇拝した家康は、武士政権の守り神として日光山を崇敬していた。
3)自然環境に恵まれ、戦術的に要害の地であった。  などが挙げられている。それ以外に最近の興味深い指摘では、
4)久能山-富士山-日光は一直線上にあり、久能山から不死(ふじ)を超えるとの含意もあったとされる。
以上のような論点は、日光に家康を徳川家の守り神として祀るために周到に凝らした論理であった。さらに、家康を神格化するための論理は、「大権現」号をめぐるいわゆる天海・崇伝(すうでん)論争にも見ることができる。

家康神格化の完成

 家康の大権現称号についての話題にはいる前に、すこし、家康が亡くなる前後の社会状況を見ておく必要がある。現在からみれば徳川幕府は270年も続き終始安泰であったように見えるが、関ヶ原の合戦によって成立した徳川幕府は紛争の火種を抱えていた。
1600年 関ヶ原の戦い、東軍徳川家康の勝利
1603年 家康征夷大将軍となり江戸幕府を開く
1614年 豊臣秀頼、京都方向寺大仏殿の鐘鋳造。大阪冬の陣。
1615年 大阪夏の陣にて豊臣氏滅びる。武家諸法度、公家諸法度。
 国内には豊臣の残党が残り、御水尾天皇との関係も思わしくない時代である。
 家康を神格化することは、江戸に本拠をおく徳川幕府にとっては体制の安泰に不可欠なことだったといえる。この神格化については、織田信長、豊臣秀吉も自らの神格化、つまり国家鎮護の神になることを試みている。
 この神に祀るにあたっての論争が、天海・崇伝論争である。一般的には、家康を吉田神道の唯一神道で祀るか(崇伝)、天台宗の山王一実神道で祀るか(天海)の争いだとされている。
 吉田神道は室町時代に起こった神道で、本地垂迹説(ほんちすいじゃく)にたいし神本仏迹説を唱え、神道を仏教よりすぐれたものとした。豊臣秀吉は吉田神道によって祀られ豊国大明神の号が贈られた。これに対し、本地垂迹説の立場から権現号を主張した天海が「明神号は豊国社没落の不吉な例あり」として、1617年に東照大権現の神号が決定されたとされる。また、東照は、朝廷の天照大神にたいしてつけられたともされている。
 創建当時は、東照社とされていたが、1645年、勅許により「東照宮」となり正一位が贈られた。それ以降、毎年京都から日光例弊使とよばれる公卿が派遣され、幕末まで続く行事となった。この例弊使こそ、京都朝廷が伊勢神宮なみの扱いを示すものであり、東照大権現の威厳を示すものであった。

小堀遠州、狩野探幽が腕を振るう

 東照宮は家光が大改築をおこない現在の諸堂を完成させた。総額60万両といわれる費用を幕府財政のなかから支払っている。
 東照宮の巨大な石鳥居に向かう石段は遠近法の手法が用いられ、ヨーロッパルネッサンス以降の影響がある。小堀遠州のプランとされる。仁王門を入り、左手の神厩舎には三猿の彫刻があり、水盤舎は唐破風の豪華な屋根をのせる。そこから陽明門にむかう左右には諸大名やオランダ、朝鮮から寄進された美術品がおかれ、東照大権現の権威と、忠誠のあかしが見られる。
 陽明門は狩野探幽の作だと言われる。狩野探幽は、京都二条城の装飾壁画を担当し絶頂期にあった。狩野派は「唐獅子と牡丹」「飛竜に波」「竹に虎」「獏に雲」や、儒教をもとにしたテーマを得意としている。これらのテーマが陽明門や唐門に展開されている。多くの神獣や「唐子遊び」「竹林の七賢人」などの故事をふむ極彩色の彫刻によって構成された門は、見るものに神話や説話を空間化して伝えている。
 白川郷の合掌造りを日本建築の美と合理性として褒め称えたドイツの建築家ブルーノ・タウトが、この東照宮の建築物を見て「いかもの」「建築の堕落」と痛烈に批判している。タウトの眼には装飾の過剰として映ったのだろう。タウトには門を構成する物語が理解できなかったのだろうから仕方がない。期待するものが違ったのだ。ただ、タウトは同じ日光大猷院の牡丹の彫刻で統一された夜叉門を誉めていることも忘れてはならない。

 日光を見ずして結構と言うなというが、日光は関東地方唯一の世界遺産である。東京を訪れる外国人観光客にとっても数少ない定番の観光ルートとなっている。同時に、江戸時代というものがどんどんと身近から消えていってしまう時代にあって、日光は江戸初期の文化的、芸術的、宗教的、政治思想的なさまざまなものを未だに保存している不思議な空間なのだ。


桂木 行人