「21世紀の千葉」 / 日本貿易振興会 アジア経済研究所・千葉県 平成12年3月の中から

1、幕張新都心の開発論的系譜

(1)海から幕張をみる

 幕張新都心の開発の計画論的なバックグラウンドは「千葉県新産業三角構想」ということになる。この構想は、1983年「幕張新都心構想」を「かずさアカデミアパーク構想」「成田国際空港都市構想」とならぶ千葉県の三つの基幹プロジェクトとして位置づけて、業務機能集積を核とした新都心構想が提案されている。さらに同年には、「幕張メッセ」がその開発誘導施設事業として発表されている。
 現在の千葉県、あるいは千葉県企業庁における幕張新都心の捉え方は、当然この三角構想を淵源として計画立案されているが、ややもするとこの三角構想の強力な磁場の中でトートロジーな循環論理をまぬがれる得ない場合があるように見受けられる。つまり、幕張を説明するのに三角構想を使い、三角構想を説明するのに幕張を使うという循環論理である。
  しかし、三角構想を注意深く読むと、この構想は千葉県を国土軸上に位置づけて、東北日本と西南日本の結節点として考え、首都圏東側の開発計画と連関させるという大きなフレームを持っていることが分かる。つまり地勢戦略と開発戦略をすりあわせることで三角構想は構想されたのだ。
  いずれにせよ、幕張新都心の成功は、三角構想を背景にした集中的な投資と、時代環境が牽引力となったことは疑えない。
  しかしここで視線を少し変え、幕張を、三角構想以前からあった東京湾の千葉県臨海部開発のフレームの中で眺めてみるとすると、幕張の持つ位置は少し違った見え方がするのではないだろうか。つまり、東京湾の歴史軸として幕張を見てみようということである。そのことによって、「内陸」の論理とは違った「海」の論理としての新しい幕張のビジョンが窺えるかもしれないと期待するからである。

 

(2)東京湾開発と幕張新都心

@第一期:「産業のコメ」供給基地
  東京湾千葉県側(京葉臨海部)の開発事業は、対岸の京葉工業地帯に後発し、本格化するのは昭和30年代に入ってからのことである。これを、第一期と呼ぶことにする。
 千葉県は県の産業構造の高度化、第2次産業への転換を、鉄鋼、石油化学コンビナート、電力を中心とする重化学工業の誘致によって達成するべく、広範な埋立事業を計画した。
 実際、昭和33年(1958年)に策定された「京葉工業地帯造成計画」は、葛南地区から市原地区までに、約3.300ヘクタールの埋立土地造成を行いその70%を工業用地、10%を住宅用地、残りを公共用地とすることとしていた。さらに、昭和45年(1970年)に策定された「千葉県第3次総合5カ年計画」では、約15.000ヘクタールと開発計画最大規模の埋立土地造成プランが提案されている。
 この工業用地にシフトした臨海部開発は、財政不足、オイルショックなど紆余曲折を経ながらも、「産業のコメ」の供給基地として実現された。
 その結果、一部の京葉工業地帯を含むが、東京湾の産業素材供給量は極めて巨大なものとなっている。
  市原地区の埋立は、当初、戦後の食糧増産のために計画され、その後、工業用地に転換するなど、土地利用の「米」から「コメ」への転換は極めて象徴的にその間の事情を物語っている。
 なお、この間の埋立事業の手法は、一般財源を充当しない「千葉方式」(事業費の予納)、「出州方式」(事業費の負担と造成土地での精算)といういわゆる「民活」方式であったことが特筆される。

A第2期:都市基盤整備と環境保全への転換
  このように、重工業指向できた東京湾開発に転換期が訪れるのは、公害問題と首都圏への人口集中に伴う都市問題が社会問題化した1970年代に入ってからである。
 昭和48年(1973年)に策定された「千葉県第4次総合5カ年計画」では、埋立計画面積を、13.400ヘクタールとはじめて縮小すると同時に、開発の方向を上下水道など公共公益施設をはじめとした都市問題を解決する都市基盤整備に大きく舵を切り替えている。
 この総合計画が千葉県の臨海開発の第2期のはじまりである。と同時に、それはオイルショックや円の変動相場制という「外圧」と、高度成長が生み出した消費社会を享受し、豊かな都市社会を指向する新しい世代の登場という「内圧」のなかで日本全体が、戦後の高度成長型経済を終えて一つの節目を迎えた時期でもあった。
 この時期から東京湾の開発論は多様性を持ったものとなっていく。
 たとえば、昭和42年(1967年)運輸省がまとめた「東京湾港湾計画の基本構想(第1次)」では、構想のねらいを「高度経済成長期の増大する輸送需要に対応した湾内諸港整備」「東京湾全体を一つの広域港湾ととらえた総合的な計画」としている。その施策の第1は「快適な環境の保全と公害の予防を考慮しつつ、計画的に用途を定めて開発を図る」とし第4に「港湾に造成する用地のうち、重化学工業用地は千葉港南部・木更津港周辺に限り、その他は港湾用地、都市再開発用地のあてる」となっている。
 この時期、東京湾は重化学工業型の利用から脱皮を図ろうとしているが、しかし、必ずしもそれに変わる新しいビジョンを持っていたとはいえない。
 その後この構想は第4次まで策定され、その構想の内容がそのまま東京湾の計画の経緯となっていると見ることが出来よう。
 それにしても、1967年の、第1次構想にある「快適な環境の保全」という施策が控えめに示している(あるいは、30年前、当時の東京湾はまだ快適な環境が存在していたのだろうか)ものと、後に見る第4次構想(1997年策定)が提案する「親水空間の整備」「水質改善」「環境創造」などといった施策との間の落差には、時代の変化を感受するしかない。(表2)
 千葉県の東京湾埋立利用構想がこの第2期の動きの中で様々な試行を始めている。
われわれの幕張は、その曲折のなかで様々な見直しを経て「メッセ」「三角構想」と出会うことによって、漸く今日の都市構想の骨格を獲得するのである。


B第二期の幕開けを告げる幕張新都心構想
  幕張新都心の開発は、表4に見るように
食糧増産の干拓事業(1945) → 中小工場用地 → ニュータウン(住宅用地・1967) →業務機能を持つ新都心(1975) →「学園のまち」構想(1976)などを経て、昭和57年(1983年)千葉県は「幕張メッセ構想」、千葉市は「千葉スタジアム構想」を発表して幕張の今日の基本骨格が決定づけられた。そして、翌年の「千葉新産業三角構想」で、東京湾岸開発の次世代の開発方針を千葉県は、幕張新都心構想として提起したのである。
  この構想に前後して、横浜市は「みらとみらい21」計画(1982)を、東京都は「臨海副都心基本計画」(1988)を発表した。これら所謂「国際交流機能」を前面に押し出した開発計画が出そろって、事実上の東京湾岸開発の第2期が始まったのではないかと思われる。さらにこの時期にいまだに湾岸最大の集客力を誇る「東京ディズニーランド」(1983)が臨海浦安にオープンしていることも第2期の象徴であろう。またここで注目するのは、幕張、東京臨海がいずれも新たな埋立事業であるのに対して、横浜のMM21は、明治、大正期に造成された重工業用地(三菱重工ドック)の産業転換として再開発された地域であり、いわば一周先を走っているランナーの転身の姿なのである。このMM21を皮切りに東京湾の京浜工業地帯側の重化学工業が一斉に事業転換の意向を打ち出し、産業構造の転換、新しい土地利用計画の模索が続いている。
 中長期で見れば、この京浜工業地帯で起こっている土地利用転換の動きは、千葉県側に伝播してくることは明らかだ。

C第三期、海の開発の時代
  第一期は、1950年の川崎製鉄の誘致決定から始まると考えれば、先に見たように20年後の1970年にはこの構造への内部からの反省が起こっている。それが10年余の試行を経て第二期の開発ビジョンが明確に提示されるのには、30年という時間が掛かっている。
 歴史が幾何級数的に時代を進展させ、消耗させるとするならば、そろそろ第二期から20年を経過する2000年初頭には、第三期のビジョンが出てきてもおかしくない。
 少なくとも、その萌芽が東京湾のあちらこちらで囁かれはじめているに違いない。出てこないことをすべてバブル経済(土地本位経済)の崩壊のせいにすることはできない。バブルの後始末で、ツケをお互いに回しあい、最後に税金と政府部門の借金で何とかその場しのぎの帳尻を合わそうとしているその動きの中に巻き込まれているうちに、時代はどんどんと先に行ってしまう。
 現在、東京湾の第三期を占うに格好の二つのプロジェクトがある。「幕張新都心拡大地区」と「市川U期」(いわゆる三番瀬)だ。プロジェクトの性格も、進捗度合いも、当然直面している課題も違っているが、そのいずれもが、次期ビジョンを待っていることだけは確かである。しかも、第二期のパラダイムとはステージの違った開発ビジョンとしてだ。
 蛇足だが、「市川U期」は、一見、開発か環境保護か、で争われているように見えるが(事実、政治的にはその側面が強調されている)環境保護派の言い分が通っても三番瀬の自浄能力を高め環境を保全し続けるための環境開発は避けて通れない。また、いわゆる開発派の言い分が通っても当然、環境保全のための技術開発や工夫なしには済まされない。したがって、開発か環境かという二項対立の枠組みそのものが第二期の思考の枠にからめ取られているというほかない。あるいは、冷戦時代の政治的枠組み、と言い直すことができるかもしれない。
 ただ、「幕張新都心拡大地区」と「市川U期」の開発を取り巻く環境として共通していえることが1つあるように思える。それは、海である。
 これまで見てきた戦後の開発は、当然のように海の開発ではなく、陸地の開発であった。戦後というよりも、家康が江戸に居を構えて日比谷の海を埋立て以降「陸地」を拡大するという農耕的モチベーションが一貫してきたとも言えよう。それでも江戸の町は海に開かれた海洋都市として、戦略防衛、上方との交易、漁業資源、遊びの場であった。実際、浜離宮は庭園に海を引き込み完成度の高い回遊式の潮入庭園を造り高度なアミューズメント空間を提供している。ベネチアが、木の杭を打ちながら海にせり出し、内部に縦横に海を取り込んで都市を造ったように、都市構造は違え、江戸も海との親和性の高い都市を形成していった。
 戦後、再び四つの島国に押し込められ、資源の少ない国の生き残り戦略を貿易加工立国として選択した以上、臨海型工業用地の造成は勢いの赴くところである。そして、現在その構造が転換を迫られ、さらに、人口の増加と集中による都市開発もまた、人口増加の停滞、あるいは減少の予測の中で土地利用にたいして大きな発想の転換が余儀なくされている。いわば、産業資本主義(インダストリー)を支えた刻苦勉励に耕し尽くすという思考が転換を迫られているということもできる。
 そのとき海は、再びわたしたちにとって大きな可能性をもつものとなるであろうし、海の開発は、海の陸地化(土地造成)ではなく、海そのものの開発であり、ありうべき海と陸地とのインターフェースの開発となるだろう。 東京湾の開発の第三期とは、そのようなものが前提となるのではないだろうか。

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    出所:日本開発構想研究所資料を加工した
 
     
 
   1976年の幕張